「瀬戸大橋」架橋にいたるまでの「知られざるドラマ」
出典:週刊現代 2022年7月23・30日号

瀬戸大橋が架かるまでには、10年に及ぶ難工事を要した。本州と四国を6本の長大橋で結ぶという、前代未聞のプロジェクト。政治家の思惑に振り回されながら、厳しい戦いに果敢に挑んだ男たちがいた――。


現在の瀬戸大橋


きっかけは「紫雲丸事故」という悲劇

「塩飽(しわく)諸島を橋台として、山陽鉄道と架橋連絡せしめば、常に風波の憂なく、実に南来北向東奔西走瞬時を費さず、其国利民福是より大なるはなし」

1889(明治22)年5月23日、讃岐鉄道開業式で挨拶に立った大久保じん(言べんに甚)之丞香川県議は、四国と本州を鉄橋で結ぶという、当時の人々の想像外の構想をぶち上げた。だが大久保は2年後に他界し、「架橋の夢」は次世紀にお預けとなった。

20世紀前半の日本は、戦争に明け暮れ、四国は「大きな孤島」のままだった。皮肉にも、本州との架橋建設のきっかけとなったのは、瀬戸内海で起こった未曽有の惨事だった。

1955(昭和30)年5月11日早朝、濃霧の中を出航した宇高連絡船(岡山県玉野市宇野と香川県高松市を結ぶ国鉄の連絡船)「紫雲丸」が、同貨物船「第三宇高丸」と海上で衝突。「紫雲丸」の乗客乗員844人が海に投げ出された。

そして修学旅行の小中学生100人を含む168人が死亡したのだった。

瀬戸内海特有の濃霧の中を、「海の銀座」と呼ばれるほど船が密集して航行し、いつかは海難事故が発生すると危惧されていた。

5つのルートを巡っての「架橋戦争」

事故から2ヵ月後、香川県議会は「宇高連絡鉄道建設促進に関する意見書」を全会一致で可決。国会でも徳島出身の三木武夫運輸相が、本州-四国間を結ぶルートの調査を約束した。

だが、ここから迷走が始まった。架橋ルートとして、(A)明石-鳴門、(B)宇野-高松、(C)日比-高松、(D)児島-坂出、(E)尾道-今治の5ルートが候補に上がった。

そしてそれぞれの地元自治体や、地元選出の国会議員らを巻き込んで、「架橋戦争」が勃発したのである。

岡山県と香川県を結ぶいわゆる「瀬戸大橋」の候補だけでも、B、C、Dと3通りがあった。そこでまずは両県で折衝し、Dルートに一本化した。

残った3ルートで、当初優勢だったのは、阪神工業地帯を後背地に持つAルートだった。'64(昭和39)年6月、河野一郎建設相は「明石-鳴門を第一にやりたいと明言した。

だが翌年、河野氏が急死。土木学会の技術調査委員会が「Aルートは多くの技術的な問題が残されている」と結論づけたことで、Dルートが本命に浮上した。

結局、次期首相の座を手にするため、まんべんなく票が欲しかった田中角栄幹事長が、'70(昭和45)年に宣言した。


「人口400万の四国に、3本の橋をかける」


オイルショックで工事は先送りに

そして同年7月、本州四国連絡橋公団を発足させた。3本の橋は、'73(昭和48)年11月に同時に起工式を行うことが決まった。

だが、起工式直前の10月17日、OPEC(石油輸出国機構)が、原油価格を70%引き上げると発表。オイルショックが日本に襲いかかった。


「5日後の起工式は延期する」


閣議で苦渋の決断を余儀なくされたのは、着工を決めた田中首相だった。

そして起工式の延期から5年経った'78(昭和53)年、世間の風向きは、「不況対策として架橋工事を進めるべきだ」という雰囲気に変わっていた。

といっても、3本同時に架橋する余裕はなく、「1ルート3橋案」が採用された。技術的な問題が多かったAルートや、経済効果が最も小さかったEルートは一部だけ着工し、Dルートの瀬戸大橋を先行して本格着工するというものだ。

この間、本四公団は「冬眠公団」と揶揄されていたが、後に「瀬戸大橋を架けた男」と呼ばれる杉田秀夫坂出工事事務所長は、5000人いたスタッフが35人まで減っても、入念に準備を進めてきた。

まず杉田所長以下、15人が自費で、手本とするサンフランシスコの金門橋やニューヨークのブルックリン橋などを視察。日本では未知の水中発破による海中基礎工事を思い立ち、実験を8回も繰り返したのだった――。

「週刊現代」2022年7月23・30日号より

杉田氏が挑んだ瀬戸大橋架橋はどれほどの難工事だったのか。後編記事『「瀬戸大橋」を架けた男の「伝説」』で詳しく紹介する。